大永元年(1521)11月3日、甲斐源氏嫡流(甲斐守護)武田信虎の嫡男として積翠寺で生まれる。
幼名・太郎、16歳で元服して将軍・足利義晴の諱をもらい晴信と名乗り、出家後は信玄と号した。

天文10年(1541)悪政を尽くした父・武田信虎を駿河へ追放して自立。
天文11年より信濃侵攻を開始し、諏訪頼重・高遠頼継らを制圧、ついで佐久郡にも侵入し、上田城の村上義清を攻める。
天文17年信濃塩尻峠の戦で小笠原長清を破り、村上義清らは共に越後に敗走し、上杉謙信(長尾景虎)に救援を求める。
天文22年(1553)以降、永禄7年(1564)まで12年にわたって信濃川中島で越後の上杉謙信と対戦、決着はつかなかったが信濃全域をほぼ手中に治める。
中でも永禄4年(1561)の戦いは激戦で、『川中島の合戦』として有名。
天文23年(1554)甲相駿・三国同盟(善徳寺の会盟)が成立し、今川義元・北条氏康と和睦する。
永禄3年(1560年)今川義元が桶狭間の合戦で尾張の織田信長に敗死した後に嫡男・義信と駿河侵攻時の意見が対立し、謀反を企てたとして東光寺に幽閉・自害させる(1567)。

領国は甲斐・信濃・駿河・上野・飛騨・美濃・三河・遠江の一部へと拡大、戦国最強と謳われた騎馬隊と戦術を駆使し、「甲斐の虎」と呼ばれ近隣諸国の大名に恐れられた。また、孫子の兵法に通じ、その象徴である「風林火山」を旗印とする。

領国経営の面では天文16年に「甲州法度之次第」を制定し、「信玄堤」に代表される治水や金山開発、税制・度量衡の統一、交通制度の整備、城下町の建設などの民政にも努め、また、和歌や詩文などの才もあり、文武両道を備えた名将であった。

元亀3年(1572)京を目指して西上の軍を起こし三河・遠江に侵攻。
三方ヶ原で徳川・織田連合軍を撃破する(三方ヶ原の合戦)が、翌元亀4年(1573)かねてからの病状が悪化し、帰国途中(4月12日)伊那の駒場で没した(53歳)。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」。


信玄率いる「戦国最強の武田騎馬隊」

●勇猛・果敢を誇り戦国最強とうたわれた”武田騎馬軍団”。
風林火山の旗のもと、向かうところ敵なしと言われ、完璧なまでの信玄の組織力・統率力に近隣諸国の大名を震え上がらせた。
戦場を疾風の如く駆け抜ける光景は勇壮そのものであった。

「御旗・楯無鎧」
●武田家代々の重宝。武田軍は、出陣前に必ずこの重宝前で”御旗楯無御照覧あれ”と祈願した。
御旗は日本最古の日の丸。楯無鎧は甲斐源氏の祖・新羅三郎義光公以来、宗家が受け継いだ重宝で現在は国宝となっている。

今もなお残る巨大事業 「棒道と信玄堤」
●信玄は、信濃侵攻をはじめとする軍事行動と同時に、信玄堤に代表される治水・灌漑事業、軍用道路の棒道の普請、城砦の修築、狼煙ネットワークの構築といった巨大プロジェクトを推進し、優れた領国経営を成し遂げた。
●棒道とは川中島まで一気に駆け上がるための軍用道路。棒道や狼煙台は今も各地で残っている。 ●先進技術を導入した、不朽の治水事業、「信玄堤」。19年の歳月を費やした治水事業は、450年経った今でも甲府盆地を河川の氾濫から守っている。

今も残る棒道

信玄堤

●各地を繋ぐ狼煙(のろし)ネットワークは、各方面の情報伝達に使い、越後や北信での上杉謙信の動きをいちはやく察知し、”謙信動く”の報に軍を向けた。140キロを2時間で伝わったという。
 

信玄の狼煙台ネットワーク


武田二十四将
武田四郎勝頼 (武田の後継者)
武田典廐信繁 (信玄の弟)
武田刑部少輔信廉 (信玄の弟)
穴山玄蕃頭信君 (武田親族衆の筆頭)
板垣駿河守信方 (信玄の右腕)
甘利備前守虎泰 (信玄の左腕)
横田備中守高松 (情報活動で活躍)
原美濃守虎胤 (甲斐の鬼美濃)
飯富兵部少輔虎昌 (赤備隊の総大将)
山県三郎右兵衛尉昌景 (西上作戦の先発隊)
高坂弾正忠昌信 (海津城主)
内藤修理亮昌豊 (武田四名臣の一人)
土屋右衛門尉昌次 
三方ヶ原で一騎打ち
真田源太左衛門尉信綱 (
鬼弾正の嫡男)
小幡山城守虎盛 (豪将鬼虎) 
秋山伯耆守信友 (西上作戦の別働隊長)
真田弾正忠幸隆 (真田一族の祖)
三枝勘解由左衛門尉守友
馬場美濃守信春 (武田四名臣の一人)
原隼人祐昌胤 (武田の陣場奉行)
小幡豊後守昌盛 (鬼虎の嫡男)
一条右衛門大夫信竜 (信玄の異母弟)
多田淡路守満頼 (夜戦が得意)
小山田左兵衛尉信茂 (郡内国人)
山本勘助晴幸 (信玄の知恵袋) 
武田二十四将之図

武田軍軍旗

「孫子の旗」

●武田軍の軍旗。
疾きこと風のごとく、
静かなること林のごとく、
侵略すること火のごとく、
動かざること山のごとし
=風林火山の歌はあまりにも有名。

信玄の陣頭に絶えず立てた旗で、疾風武田騎馬隊の象徴である。
絹の紺地に十四文字が金泥で書かれている。書は信玄の心の師、快川国師の筆によると言う。
この軍旗を見ただけで敵軍は戦意を喪失してしまった。

「諏訪明神旗」

●両旗とも信玄本陣のトレードマークである。


「甲州法度之次第」

 
●甲斐守護職の座に着き、最初に手がけたのが民政の基本法である分国法の制定である。天文一六年「甲州法度」を制定、8年の歳月をかけて「甲州法度之次第」五七箇条を制定し、他の戦国大名のなし得なかった偉業を達成した。

信玄vs謙信 戦国時代の代表的な合戦 「川中島の合戦」
『川中島合戦図屏風』
●宿命のライバル・武田信玄と上杉謙信
戦国二強の両雄が北信濃をめぐり、川中島で五度の決戦を挑んだ。足かけ十二年にわたってくりひろげられた合戦の中で、永禄四年の八幡原の決戦が最も有名である。甲軍は軍師・山本勘助の「啄木鳥の戦法」、一方の越軍は甲軍の動きを察知し「車懸かりの陣」で襲いかかる。
●源氏と平氏の因縁

”越後の龍” 謙信は、桓武天皇の流れを汲む関東八平氏の一つ「長尾氏」。
一方、”甲斐の虎” 信玄は、清和天皇の流れを汲む甲斐源氏の嫡流である。宿敵ゆえに結ばれた友情は、「敵に塩を送る」形で表れる。信玄の病没前には、子勝頼に”謙信に頼るよう”遺言したという。

 

天才戦術家・上杉謙信


三方ヶ原の合戦に大勝

武田軍陣立屏風

●西暦1572年(元亀三年)、上洛を目指す武田信玄率いる甲州軍団は、徳川家康の枕元を素通りして家康を挑発する。堪忍袋の緒が切れた家康は城を飛び出し甲軍を追走する。甲軍は三方ヶ原にて180度方向転換し、即座に「魚鱗の陣」を敷き戦闘態勢に入った。網に掛かった徳川軍は逃げられず合戦になるが多勢に無勢で大敗。家康は恐怖のあまり脱糞、命からがら浜松城に逃げ帰った。
●三方ヶ原にて大敗した家康は生涯信玄との戦を教訓とした。
若さと慢心を反省し惨敗の自分の姿を絵師に書かせ軽率な行動を戒めたのである。
家康は若い頃から名将・武田信玄を恐れながらも模範とし、甲州法度や甲州金、行動哲学・軍法から民治まで信玄に学ぶべきもの多く、手本としていたことは有名である。長く信長や秀吉の近くに居ながらも敢えて真似する事なく染まらないようにしていたのである。徳川300年の礎は武田信玄にありといってもいいだろう。
信玄は、甲陽軍艦では、東照大権現=神様を破った英雄とされている。

惨敗の徳川家康


武田信玄の最大版図

 
●破竹の快進撃

怒濤の版図拡大は留まることを知らず、一代で八カ国を領する戦国大名へとのし上がった。推定120万石と言われている。

甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の東部・飛騨の東部・越中の東南部・西上野へと拡大した。

 


貨幣制度の始まり
貨幣制度は、武田信玄の甲州金が始まりと言われ、江戸時代の弊制の母胎となっている。
貨幣制度・法律の制定・日本最古の日の丸・などなど後世に与えた影響は大きい。
「武田節」 山梨県民なら誰でも知っている
♪♪ 米山愛紫作詞・明本京静作曲/昭和36年  ♪♪

甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子(つまこ)につつが あらざるや
あらざるや

祖霊(それい)まします この山河
敵にふませて なるものか
人は石垣 人は城
情けは味方 仇(あだ)は敵
仇は敵

《詩吟》
疾如風(はやきことかぜのごとく)
徐如林(しずかなることはやしのごとく)
侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)
不動如山(うごかざることやまのごとし)

つつじケ崎の 月さやか
うたげを尽くせ 明日よりは
おのおの京を めざしつつ
雲と興(おこ)れや 武田武士
武田武士



●映画
「影武者」……黒沢映画の代表作の一つ。
「天と地と」…角川映画。川中島の合戦が壮大なスケールで描かれている。
「風林火山」…山本勘助が主人公の映画。

 

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