(信玄を支えたブレーンたち)

武田四郎勝頼  武田家の後継者

信玄の四男で武田家の後継者、四郎勝頼は外祖父諏訪頼重の頼を襲名、母は諏訪御料人。
信玄は、反発する嫡男義信を疎んじ、勝頼を溺愛した。
勝頼は信玄に劣らず勇猛果敢を誇ったが、長篠の合戦で織田・徳川連合軍に大敗。

戦国大名としての武田氏は衰退したが、信玄の次男・竜芳の末裔が武田家正統として現在までその血を受け継いでいる。こちらを参照
【一五四六年〜一五八二年】
武田典廐信繁  武田軍の副将

甲斐武田軍の副将。
武田信虎の次男で信玄の実弟、母は同じ大井夫人。幼名次郎、元服して左馬助と言った。父信虎が信繁を寵愛し、信玄を疎んじた時にも兄信玄に尽くした。永禄九年、川中島で戦死。

江戸期の「駿台雑話」では、「天文・永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄の弟、左典厩武田信繁これなり・・・」と絶賛している。後に真田信之は旧主信繁の墓の荒廃をなげき典厩寺を建て菩提を弔った。
【一五二四年〜一五六一年】
武田刑部少輔信廉 武田軍の武人画家

信虎の三男、母は大井夫人で信玄の実弟。幼名孫六、逍遙軒信綱。
武人画家として有名で父母の肖像は重要文化財。

信廉は、戦場働きより、やはり情報収集といった内政的な仕事に手腕を見せ、勘助や素破を使い自軍の内乱を未然に防ぐべき功績を上げている。

織田軍の甲斐侵攻の際は、勝頼と生死をともにせず、残党狩りではかなく終わっている。
【一五二八年〜一五八二年】
穴山玄蕃頭信君 武田の再興を祈願

母は信玄の姉「南松院」、妻は信玄の次女「見性院」、武田親族衆筆頭。
穴山氏は、武田信武の五男義武が逸見筋穴山(現韮崎市)の地を領し、穴山氏を称したのが始まりという。
武田家滅亡の折りに、徳川に降り本能寺の変で帰国途中土民によって横死した。
【一五四一年〜一五八二年】
板垣駿河守信方 最高指揮官「職」で活躍

板垣氏は、武田氏の祖武田信義の二男兼信を祖とする甲斐源氏の名門。
板垣信方は信玄の右腕で重臣、最高指揮官「職(しき)」として活躍。
信虎に信頼され信玄の守り役を努めた。
信虎追放の無血クーデターの立て役者である。
天文一七年、上田原の戦いで戦死。
【一四八九年〜一五四八年】
甘利備前守虎泰 最高指揮官「職」で活躍

板垣同様、信玄の重臣で最高指揮官「職」として活躍。

若き信玄は、天文一七年、北信の豪将村上義清との上田原の合戦で初めての敗北を喫する。甘利・板垣両将、才間信綱・初鹿野昌次ら七〇〇余名の将兵を失い、自身も右肩に刀傷を負い、「嘆き言語道断」と悔しがった。
後の信玄の戦争観を形作った戦と言えよう。
【?年〜一五四八年】
横田備中守高松 情報活動で活躍

近江六角氏より武田信虎の招きに応じて武田に仕えた。
合戦に三十四度出陣し、受けた刀傷は三十一を数える猛者であった。
天文十九年の戸石城総攻撃で高松ら千名余が戦死。世に名高い戸石崩れである。
【一四八四年〜一五五〇年】
原美濃守虎胤 家臣団随一の豪将

「十をもって百の敵に当たる」を信条とし、甲斐の鬼美濃と呼ばれた。
虎胤は、房州・臼井から信虎時代に父子で亡命してきた。合戦にのぞむこと三十八回、全身に受けた傷は五十三ヶ所を数えた。
【一五〇〇年〜一五六四年】
飯富兵部少輔虎昌 赤備え隊総大将

飯富の赤備え隊総大将。軍全体を朱一色に統一し火の玉のように敵を圧倒。後に徳川の「井伊の赤備え」で再編された。

信玄の嫡子義信の守り役で、義信謀反クーデターの主謀者として責をとり自害。
【一五〇四年〜一五六五年】
山県三郎右兵衛尉昌景 戦場では勇猛果敢・武田四名臣の一人

飯富虎昌の実弟で飯富源四郎といった。信玄の近習小姓から侍大将に抜擢された。板垣・甘利亡き後に「職」に任ぜられ信玄の片腕となった。
信玄の西上作戦の先発隊長として指揮を執る。三方ヶ原の合戦では徳川本陣に切り込み「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ、危うく命を落とすところであった」と家康に言わしめた敵を恐れぬ猛将であった。

信玄が死に際し山県を呼び「瀬田に旗を立てよ」と遺言したが、主君の意志を果たせないまま、長篠の合戦にて戦死した。
【一五二九年〜一五七五年】
高坂弾正忠昌信 軍団最大戦力

作戦・用兵の妙は軍団随一。武田四名臣の一人。
石和の豪農出身。信玄の近習小姓として寵愛され、「使番衆」を経て百五十騎の侍大将に抜擢された。
長篠合戦には参せず北信の海津城主として、上杉勢に備えた。
【一五二六年〜一五七八年】
内藤修理亮昌豊 武田四名臣の一人

武田信繁亡き後”甲斐の副将格”で、武田四名臣の一人。
初名を工藤源左衛門祐長といった。
信虎時代に出奔中、信玄に呼び戻され五十騎の侍大将に抜擢、断絶中の内藤家の名跡を継がせた。
西上野の郡代として活躍。長篠の合戦にて戦死。
【一五二三年〜一五七五年】
土屋右衛門尉昌次 三方ヶ原で一騎打ち

信玄の武の守り役・金丸筑前守虎義の二男。

「奥近習六人」の一人として信玄に仕えた。
川中島の合戦の戦功で、武田氏ゆかりの名族土屋氏を継がせた。
三方ヶ原では、徳川方・鳥居信之と一騎打ちで首級をあげている。

長篠の合戦では、敵の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を受け戦死。
【一五四四年〜一五七五年】
真田源太左衛門尉信綱 鬼弾正の嫡男

真田幸隆の長男。
武勇抜群、攻城・野戦その効すこぶる多く、父鬼弾正に劣らず戦好者であった。
長篠の合戦にて戦死。
【一五三七年〜一五七五年】
小幡山城守虎盛 豪将”鬼虎”

信虎時代に元服して騎馬十五、足軽七十五を統率した。
高坂弾正の副将として海津城を守衛した。
永禄四年、死に際し「よくみのほとをしれ」の九文字を遺言した。
【一五〇四年〜一五六一年】

秋山伯耆守信友 西上作戦の別動隊長

秋山氏は武田氏と同じ甲斐源氏の名族。元服して秋山晴近と名乗る。
武田晴信は、旧名晴近改め信友と名乗るよう命じた。
”信”の一字は甲斐武田氏の直系のみに限られていた偏諱である。

信玄の西上作戦の別動隊の総大将として伊那ルートを西上し美濃・岩村城を陥落させ、織田信長の叔母を妻にした。
信玄の六女「松姫」の縁組に名代として織田信長に当たった。
【一五二六年〜一五七五年】
真田弾正忠幸隆 真田一族の祖

真田氏は信濃・海野氏の流れを汲む名族で武田に臣従。
知将・真田昌幸の父で、真田幸村の祖父である。

幸隆は信玄が手こずっていた村上義清の戸石城をあらゆる謀略を使い一日で攻め落とした。晴信(信玄)と同時に剃髪し、一徳斎と号した。
信玄西上の際は、上杉の押さえとして岩櫃城を守っていたが信玄死後一年余りで後を追うように病没。
【一五一三年〜一五七四年】
三枝勘解由左衛門尉守友 花沢城攻めで一番槍

武田信虎は、断絶した名族三枝家をおこし同族の石原守綱に名跡を継がせた。その子が守友の父である。
「奥近習六人」の一人として信玄に仕えた。
武勇に優れ、駿河花沢城攻めでは一番槍の功名をあげ感状を受けている。
長篠の合戦にて戦死。
【一五三七年〜一五七五年】
馬場美濃守信房 武田四名臣の豪傑・知将

信房(信春ともいう)は、国境近い教来石を領し教来石民部景政と名乗っていたが、跡目の絶えていた武田重臣・馬場姓を許され、馬場美濃守信房と改姓した。

一国の太守になってもよい器量人とたたえられた信房は、信虎・信玄・勝頼三代に仕えた重臣で「武田四名臣」の一人。四十余年の歴戦中に身に一つも傷を受けず九回の褒賞を受けた。
長篠の合戦にて戦死。
【一五一四年〜一五七五年】
原隼人祐昌胤 武田の陣場奉行

信玄の頭脳・陣場奉行。
陣場奉行の頭脳で合戦の優劣が決まるといわれ、刻々と変わる戦況を分析し報告した。
長篠の合戦にて戦死。
【?年〜一五七五年】
小幡豊後守昌盛 海津城の副将

父・小幡山城守の次男で孫次郎のちに、又右兵衛尉といった。
天文二十三年、梶間の合戦で父山城と参戦し、敵六人と槍で突き合い三人を討ち取った。また、大将らしき一騎と組み討ち首級をあげた。
信玄は、恩賞として梶間に知行地を与えたという。
難病・積聚におかされ、四十九歳で病死。
【一五三三年〜一五八二年】
一条右衛門大夫信竜 信玄の異母弟

信玄の異母弟で武田氏の祖武田信義の長男・一条忠頼の名跡を継いだ。兄信玄をよく助けた名将であった。
長篠の合戦では勝頼をよく護衛し、勝頼の退却を見届けてから軍を引いた。
武田氏没落前に病死。
【一五二八年〜一五八二年】
多田淡路守満頼 夜襲戦のエキスパート

美濃国出身で信虎時代に召し抱えられる。
原美濃・横田備中・小幡虎盛と並び立つ四人の足軽隊将の一人である。
合戦の場数二十九回、身に二十七ヶ所の刀傷を負った。
また、主君より二十九度感状を授かったという。

信州虚空蔵山の警護にあったとき「火車鬼」を斬ったという伝説がある豪の者である。
【?年〜一五六三年】
小山田左兵衛尉信茂 最強の郡内国人

小山田氏は、桓武天皇を始祖と仰ぐ名門桓武平氏で関東八平氏の一つ。郡内田原郷を給された軍内最強とうたわれた同盟国であった。
武田家滅亡の折りには、穴山梅雪同様に武田を裏切った悪人のイメージが強く、”信玄びいき”には人気がない。

武田軍の開戦は、小山田隊の投石戦から始まったという。
【一五三八年〜一五八二年】
山本勘助晴幸 信玄の知恵袋

信玄の知恵袋、武田家軍師
諸国歴遊で情報通、天文・兵術・槍術に優れ、城取り、陣取り、城造りの名人であった。

永禄四年の川中島の合戦「八幡原決戦」で軍を二つに分けて後方より敵を追い落とす「啄木鳥の戦法」を提案したが、上杉軍に見抜かれ窮地に。勘助は責を感じ敵陣へ飛び込み戦死した。
【一五〇〇年〜一五六一年】

2007年大河ドラマ「風林火山」の主人公である。
『番外編』
  仁科五郎盛信 希代の英雄

信玄の五男で母は油川夫人。
信濃の名族・仁科氏の名跡を継いだ盛信は勝頼時代に高遠城を任された。
長篠の敗戦後に織田軍が侵攻すると離反が相次ぐ中で、盛信だけは高遠を死守したが持ちきれず壮絶に散った。
高遠城での一戦ではまさに最期まで”武田武士”を貫いた希代の英雄であった。今も高遠城の桜を赤く染めているという。
【一五五七年〜一五八二年】
真田昌幸 徳川を二度破った名将

真田幸隆の三男。武藤家を継いだ後に武藤喜兵衛を名乗るが、兄真田信綱・昌輝が長篠で戦死し急遽真田家を継いだ。勝頼の側近であったが真田郷に戻り上州計略・経営を担当。

武田家滅亡後は、主家を失い北条家に臣属を打診した。その後、長男・信之を徳川方に、次男幸村を豊臣方に配属させ家名を存続させるしたたかさ。関ヶ原の合戦では徳川主力の秀忠軍を上田に釘付けにし、遅参させたのは有名な話。
【一五四七年〜一六一一年】
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