【武田家旧温会】 飯沼氏資料より
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武田信玄公 直系の子孫決定についての解説

 

武田信玄公には、7人の男の子供が有りました。
本来なら、長男、義信が武田家を継ぐ予定で有りましたが永録8年、父の信玄に背き、東光寺においてやがて自害させられました。
 よって長男が死亡したため、二男、信親(別名を竜芳)が後を継ぐべきものであったが、盲目のために継ぐ事が出来ませんでした。
 長男、二男が上記のように駄目になってしまったので系統の順番で行くと三男、信之が継ぐはずでしたが、しかしこれまた10才で死亡。
 このような事が度重なり、結果として四男の勝頼が武田家を継ぐこととなった最大の理由になります。
 元来から言われているように信玄公は、側室の諏訪御科人を非常に愛していたからこそ側室の子供、しかも四男と言う系統の低さにもかかわらず勝頼を後継者にしたと言う説がありますが、これは近年の小説等の影響を受けた話であり、すべては不幸にして上記のように後継者がことごとく、いなくなってしまった結果として、勝頼が武田家を継ぐ事になった本当の訳になります。
 ちなみに五男、盛信は、信濃高遠城にて戦死。六男、信貞も甲府において織田方の兵に殺されてしまいました。しかし七男、信清は姉をたよって米沢の上杉家にのがれることができ、この子孫は現在まで続いております。

 ここまでは、信玄公の子供たちがどうなったかについて詳しく述べてきましたが次項では、信玄公に残された直系の子孫とはどの家に決定されるに至ったのかを具体的に述べていきたいと思います.
 


大正三年の天皇陛下、即位式典に際し今は亡き信玄公に対しまして
従三位
を贈位すると宮内省からの申し出が有りました。
 この時に問題となったのが、この従三位を受け取るのは、信玄公の直系の子孫にと言うことが決められていました。
そこで国と県で信玄公の子孫の確認に動き出したところ、この事を聞き付けて我こそが信玄公の子孫なりと言う人達がものすごい数で名乗り出てしまいました。
 その中には、ただ苗字が武田姓と言う事だけで、名乗り出た人達もいて混乱をきたしはじめていました。
そこで国としても、県としてもやはり、しっかりとした系図などによる研究にのっとり正確な直系の子孫の確定に動き出すこととなった訳です。
 その結果として12年近くにも及ぶ研究の成果として、二つの武田家まで絞り込み、最後で一家の武田家に特定をするに至りました。
 今日、この最後に残って特定にいたった武田家が信玄公の直系の子孫、武田家正統の総本家として従三位を贈位され、現在にいたっております。
 そこで、なにゆえにこの一家の武田家が最後まで残り、直系の子孫として決定をするにいたったのかを説明して行きたいと思います。

最初の項のところで、信玄公の子供について述べて来たように現在の子孫として残っておられる家が二家あります。このうち一家は、二男、信親(別名を竜芳)の家系です。これについては信親は、盲目だっただけで有り、敵に殺されることはありませんでした。(後に甲府市住吉にある入明寺において自害するがすでに後継ぎの子供がありました。)
 もう一家については、七男、信清の家系でありこれは姉を頼って米沢に逃げのび、上杉家に保護をしてもらいました。(現在の米沢武田氏の祖)
 以上の二家が最後の選考まで残り、直系を激しく争った家系であります。
この二家のうちどちらか一家が信玄公の直系の子孫として決定されました。
 


それは、最後で直系とみなされ決定した一家とは、結果として二男、信親(別名を竜芳)の家系でした。
 その大きな理由としては、まず二男、信親(別名を竜芳)は、正室三条夫人の子供として生まれたのに対し、七男、信清は、側室禰津夫人の子供として生まれた経緯があるからです。(正室と側室の位の差によるもの)
 もう一つは、二男、信親(別名を竜芳)の家系を江戸幕府は、信玄公の直系と当時からみなし、表高家という地位をあたえていました。
 最後の理由としては、信玄公の菩提寺、恵林寺に残されている、信玄公の法要年忌の記録が常に二男、信親(別名を竜芳)の系統の家系が施主として代々盛大に営んでいるのを伝えていることです。
 これは、当時古くから二男、信親(別名を竜芳)の家系が法要の施主として営んでいるので、七男、信清の系統としても、二男、信親(別名を竜芳)の家系を信玄の直系と認めない訳には行かないのです。

 このような総合的な12年近くにも及ぶ研究の結果、現在の武田家正統を二男、信親の家系が代々受け継ぎ現在に至っている経緯となります。
なお、この正統決定は、東京帝国大学史料編さん所 武田研究の権威 渡辺世祐博士と山梨県の郷土史家 村松蘆州翁の尽力によるものである。

(文献史料)
・武田家と入明寺 S18 村松氏
・武田信玄の経論と修養 S46 渡辺氏


”甲斐源氏 武田家は、天目山に滅びず”

以上です。


武田家家臣末裔者の会「武田家旧温会」飯沼氏資料より

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信玄公以降の武田宗家はこちら

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