武田信玄 名言・エピソード・語源集


風林火山

こちらを参照

名言


『人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり』

どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。
情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びるという意味。

『凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。
その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。
たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。
すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり』

十分の勝ちを得る事は驕り(おごり)を生じると戒めた言葉。
実に説得力のある言葉であり、万人が心掛けたい言葉である。

 

語源

『すっぱ抜く』

信玄の使っていた忍者の事を透波(すっぱ)と言う。素破も乱波と同意。
現代で使われている「すっぱ抜く」の語源と言われている。
ちなみに、武田の忍者は透波、上杉は軒猿、北条は風魔と称される。

 

日本初

『タイムカード制度』
『ボーナス制度』
『インスタント味噌汁』
『金貨の鋳造・甲州金』

 

エピソード

武田信玄は、躑躅ヶ崎館に『水洗トイレ』を作っており、ここを山と呼んだ。家臣が「なぜ、厠を山と言う呼ぶのでしょうか」と聞くと、「山には草木(臭き)が絶えぬから」と回答している。


「為せば成る、為さねば成らぬ、成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」
もともとは信玄の言葉であるが、上杉鷹山の「為せば成る...」の方が有名である。



「弓矢の儀、取り様の事、四十歳より内は勝つように、四十歳より後は負けざるように」
これも信玄の言葉である。


武田信玄が信濃に出陣したとき一羽の鳩が陣中に飛来し木にとまった。当時、鳩は勝ち戦を引き寄せる縁起の良い生き物と考えられていた。
信玄はこの鳩を見て「もし、鳩が来ないときは危うい戦になる」と迷信を打破したという。

 

信玄の最後


信玄は重臣の山県昌景に対して、「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
瀬田は琵琶湖の南で京の入口を意味する言葉であり、西上の軍を進めよという意志が伝わってくる。

また、勝頼に対して「自分が死した後は上杉謙信を頼れ。また三年間を喪を秘せ」と言い残したという。

元亀4年(1573年)4月12日、信濃国駒場で病死。享年53歳。
辞世の句:「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
戒名:法性院機山信玄

 

 



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